「どうして主を捜すのですか」 02.09.29
ルカ2:41〜52
ナザレの町からエルサレムの都に行った帰り、ヨセフとマリアは、
幼い主イエスがいないことに気が付きました。慌てた彼らは、
主を捜してエルサレムに方向転換をしました。
そして、ようやく神殿にいる主を見つけました。
そばにいると思い込んでいた主が、実はいらっしゃらないことに
気付き、慌てて捜すこの両親の姿に、わたしたちはハッと
させられます。主がおられないことに気付いて慌てる姿は、
この両親だけが経験することではないからです。
彼らは、主イエスが自分たちの側にいることを当然と思っていました。
そのことに慣れていました。慣れは、時に大切なことを見失ってしまう
ものです。
両親は、とても大きな経験を経て、主イエスの両親となりました。
天使のお告げがあって、誕生した主イエスでした。幼い主のところに、
羊飼いや東方の学者たちが訪ねてきたことにも驚いたことでしょう。
不思議な経験を重ねた二人は、自分たちが主イエスの両親である
ことに驚きと、よい意味での緊張感を持っていたでしょう。
しかし、そんな二人でさえ、主の存在に慣れてしまうのです。
わたしたちも、そうなりかねないものです。
神の御子が、自分の側にいてくださる。このことは決して当たり前の
事ではなく、驚き続けるべきことです。感謝し続けるべきことです。
この驚きと感謝を当然と思い、慣れてしまう時に、両親のように、主を
見失うことがおきるのです。<いつも喜んでいなさい。どんなことにも
感謝しなさい>(Tテサロニケ5:16.18)との御言葉は、主が共にいて
くださることを喜び、感謝し、驚いていなさいということでもあります。
主は、その後、主を見失った両親に仕えて暮らされます(51節)。
うろたえる私たちが、主の方に向きを変えるならば、主は再び、
わたしたちと共に進み、仕えてくださいます。
主の方に向きを変え、神殿(礼拝)で主と再会して、私たちは
この世に出て行きます